所有の概念が世界を不幸にする

魂とか精神とか

「所有」とはどういう事か。一般的な意味では「物を持つ」や「自分の物にする」。それはその通り。ただ、もっと本質的な部分を深く考えてみると、実は「独占」や「支配」と意味合いは近い。

まず、食べ物で考えてみよう。仮に食べ物を独占的に「所有」してる人がいるとする。その場合お腹が空いたら、その人から譲ってもらわなければならなくなる。その人が「タダでは駄目」と言うなら、お金と交換する事になる。もし、その人の独占的に食べ物を所有する状況が長く続く様なら、お金を払い続けなければならない。食べないと生きていけないので、しょうがない。所有してない側からすると、泣き寝入りの様な状態。こうして所有する者が、所有してない者を支配する構造が出来上がる、という訳だ。

この「食べ物」のところを、「土地」や「資源」や「エネルギー」などに入れ替えて考えても同じ。所有する者が所有してない者を支配する構造が生まれる。

こういう支配構造の下では、その所有物の数が少なくなった時に、不幸が生まれる。所有する側が譲ってくれなかったり、とてつもなく高い値段を付けたりする。そうすると所有してない側は不満が募るし、生活していけなくなる。こういう不満が争いの火種になってしまうのだ。人類の歴史を振り返ると、こういう事が原因で起きた戦争や闘争は多い。

今度は逆に、食べ物を誰も「所有」していない世の中を想像してみて欲しい。食べ物をみんなで分かち合い「共有」する世の中だ。食べ物が豊富にある時は、みんな好きに食べて良い。食べたい物を食べたいだけ。食べたい時に食べれるから、所有しようという発想は生まれない。また食べ物が不足した時は、みんなで公平に分ければ良い。そうすれば争いも生まれない。みんなで共有する物、という思想がベースにあれば、こういう世の中は実現可能なのだ。

縄文時代の日本は、まさにこういう世の中だったと言われている。縄文人にとっては食べ物も土地も資源もみんなの物で、誰の物でもなかった。みんなで仲良く分かち合うのが当たり前だから、誰も「所有」という事をしないのだ。縄文人は磨製石器を作る技術を持っていたのに、戦争に使う様な武器は遺跡から出て来ない。出て来るのは、狩りで使う様な小型の武器のみ。これはつまり、縄文人は人間同士で争わなかった、戦争をしなかった、ということだ。

では、なぜ縄文人はこういう思想を持っていたのだろうか?それは自分と他者を区別しなかったからだ、と言える。それはまさに「ワンネス」の発想だ。我々一人一人の魂は、元々は大きな一つのかたまり(ワンネス)だから、みんな自分の分身の様なもの、という考え。目の前にいる他者のことを、自分と同一視する。私とあなたは同じ、なのだ。だから、自分が所有する事で他者が所有出来ない、という状況は縄文人にとって非常に不自然で気持ちが悪い事なのだ。だから、みんなで仲良く「共有」するのが当たり前になるし、争いも起きないという訳だ。

自分と他者を区別しなければ、「所有」という発想は生まれないのだ。これは言い換えると、所有の概念の根っこには、自分と他者の区別がある、ということ。そして、その区別があるから「支配」や「戦争」が生まれる、ということだ。

我々の祖先である縄文人は知っていた。「所有」しない方が平和に仲良く暮らせる事を。

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